2015年1月30日金曜日

東日本大震災とアメリカ(マッカーサー)の闇

ここ最近、太平洋戦争やマッカーサーのことを
色々と調べている中で奇妙な一致に気がついた。


まずは、下記を見てみよう。


下記は宝島社が東日本大震災の年の2011年9月2日に
各新聞社に一面広告を出したものである。


宝島社の建前上の公式見解は下記である。

敗戦や災害など、これまで幾度となく苦境に直面してきた日本。
日本人はそのつど、不屈の精神と協調性を武器に国を建て直してきた歴史があります。
世界のどこを見ても、これほどしぶとく、強い生命力を秘めた国民は存在しないのではないか。
そんな気さえするのです。
「いい国つくろう、何度でも。」
この投げかけを通じて、
日本人が本来持っている力を呼び覚ましてみたいと考えました。



宝島社はここ数年の出版不況にあって、特亜に過激な言説を
唱えて発行部数を伸ばしている稀有な出版社である。
また、様々な裏側や陰謀論などに関する出版物も発行し
世界中の玉石混交な情報が集まってくることは想像にかたくない。


おそらく、マッカーサーと東日本大震災の関係に気づいて
1945年の日本が降伏文書に調印した9月2日に合わせて
米国への強烈な風刺を以って、行われた意見広告だったのだろう。


以下に私の想像する内容を示したい。

【マッカーサーのフィリピン撤退】
時代は1942年まで遡る。日本時間1941年12月8日に開戦した太平洋戦争で
日本はシーレーンの重要拠点フィリピン攻略を進める。
そして翌年3月11日にフィリピン防衛軍総司令官のマッカーサーが
家族と共にオーストラリアへ逃避するのである。

この際に、アメリカで有名な『I shall return.』へと、つながるわけであるが
その後、フィリピン攻防戦は日本軍により攻略され
5月7日に、米軍史上初の降伏をもたらすのである。
アメリカ人にとって、この屈辱は耐え難きものであることは
火を見るより明らかである。

タイムズアトラス『第二次世界大戦歴史地図 ジョン・キーガン著』より

引用『これは史上初の戦場における米軍降伏の事例であった


事実、マッカーサーは日本攻略の戦略を曲げてまでも
フィリピン奪還に執念を燃やしたし、バターン戦の責任将校を
東京裁判で裁き、復讐を果たしている。
しかし、やはり彼らの中で復讐の炎はくすぶり続けていたのであろう。


【もう一つの原発事故】
1997年3月11日に茨城県東海村で原子力発電施設の事故が発生した。
いわゆる動燃東海事業所火災爆発事故である。
レベル3の事故であるが、爆発に至るまでの真因は不明である。
この年は第二次橋本龍太郎内閣が政権を担っており、米国債売却騒動など
保護者であるアメリカの怒りを買う出来事が色々とあった年である。
マッカーサーの恥辱から55年後の同日である。


【そして東日本大震災】
2011年3月11日に発生した東日本大震災は、津波による
大規模地震災害、そして福島第一原子力発電所事故が発生した…


これらの事故は果たして偶然なのだろうか?
アメリカは自らに少しでも危害が加わると本性を表す。
先の北朝鮮のパロディ映画上映を巡って起こったサイバーテロ事件でもそうである。
今まで日本がいくら要請しても北朝鮮など
眼中になかったものが、ひとたびコケにされると全力で行くのである。


アメリカは日にちにこだわるのである。
例えば東京裁判も良い例である。
1946年4月29日(昭和天皇誕生日)に起訴状が提出され
1948年12月23日(今上天皇誕生日)にいわゆるA級戦犯の死刑が執行されるのである。
これは、日本国民並びに天皇陛下への挑戦状である。


パールハーバーと並んで、フィリピン戦での米軍降伏は
彼らの黒歴史なのである。


ちなみに高速増殖炉もんじゅのナトリウム漏洩事故が発生したのは
1995年12月8日である。


信じるか信じないかはあなた次第…

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